兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『誰が天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことに他なりません。また、「『誰が底なしの淵に降るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、なんと言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも「主の言葉を信じる者は、誰も失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシャ人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、ご自分をよび求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名をよび求めるものは誰でも救われる」のです。
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてある通りです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、誰がわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。
「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルはわからなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことで、あなたがたに妬みを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見出され、わたしを妬まなかった者たちに自分を現した」と言っています。
しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
(JCB訳)
愛するみなさん。わたしが心から願い、祈り求めているのは、同胞であるユダヤ人が救われることです。わたしは、彼らが神の誉れをどんなに熱心に求めているか、よく知っています。しかし、それは見当違いの熱心なのです。というのも、彼らには、キリストが自分たちを神の前に正しい者とするために死んでくださったことが、わかっていないからです。そして、自分たちの正しさを認めさせようとして、神の救いの道に従わなかったのです。彼らが律法(旧約のおきてや戒律)を守ることによって手に入れようとしているすべてのものを、キリストはご自分をを信じる人々に与えてくださいます。キリストは、律法を終結なさったのです。モーセは、「神の掟と定めを行う人は、それによって救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。「あなたは、キリストを見つけようと天を探し回る必要も、助けていただこうと引きおろす必要もない。」また、「キリストをもう一度復活させようと、死者の中を探し回る必要もない。」というのは、キリストを信じることによって与えられる救いは、自分の心の中や口、まさにわたしたちのすぐ手の届くところにあるからです。なぜなら、もし自分の口で、「イエス・キリストはわたしの主です」と告白し、自分の心で、「神はイエス・キリストを死者の中から復活させてくださった」と信じるなら、あなたは救われるのです。人は、心で信じることによって、神の前に正しい者とされ、その信仰を口で告白することによって救われるのです。聖書はわたしたちに、「主キリストを信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。ユダヤ人と外国人の区別はありません。同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求めるものには誰にも、恵みを惜しみなく与えてくださるからです。主の御名をよび求める者は、誰でも救われるのです。
しかし、主を信じていなければ、どうして主に「救ってください」と求めることができるでしょうか。また、主イエスのことを一度も聞いたことがなければ、どうしてそのお方を信じることができるでしょうか。誰かが教えてくれなければ、どうしてそのお方のことを聞けるでしょうか。また、神に遣わされなければ、どうして人々のところへ出かけて教えることができるでしょうか。聖書に、「神との平和を宣べ伝え、良い知らせをもたらす人の足は、なんと麗しいことか」とあるのは、まさにこのことです。
しかし、福音(キリストによる救いの知らせ)を耳にした人が皆、喜んで受け入れたわけではありません。預言者イザヤが、「主よ、彼らの語った時、誰がわたしの言葉を信じましたか」と言っている通りです。信仰は、キリストについての言葉に耳を傾けることから始まるのです。しかし、ユダヤ人はどうなのでしょうか。彼らは神の言葉を聞いたのでしょうか。もちろんです。神の言葉は、彼らをどこまでも追いかけ、地の果てまでも告げ知らされたのですから。
さらにユダヤ人は、もし自分たちが神の救いを拒むなら、その救いは他の人に与えられることを知っていたのでしょうか。もちろん知っていました。というのは、その昔モーセの時代に、すでに神はこう告げておられたからです。
「わたしは、無知な異教の諸国民に救いを与えることで、わたしの民に妬みを起こさせ、その目を覚まさせよう。」
のちに、イザヤも大胆にこう言っています。
「探し求めもしなかった人々によって、神は見出される。」
その一方、神はユダヤ人に、なお手を差し伸べ続けておられるのですが、彼らは反抗して、神のもとに行こうとしていないのです。